Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

dia

toukaimura1


虚空(Cosmo)のマッピング=似顔絵作りの(偽)技法は 宇宙の居所など何にも
         
   (Naa--nnimo)気にしてなーいうら若き 懐かしの裏路地の床屋の娘 だけ

   が 密やかに知っている と まだ実際「乳」臭いスーパーマーケットの誕生

   などには 本当の話たーいして小躍りすることもなかったこのうら若かった私

   は 心の奥底で 言い換えれば 「母=女神(ディーヴァ)」の背中で 赤き

   否青白き?)乳汁を この口に含ませ 吸い込み げそっと吐き戻しながら

   思って いた のかも知れない ちなみにそのスーパーは ダイエーでも

   西友でもない まさに 名も無きヴァミリオンの路地裏の角を曲がった

   所の床屋 の娘が店員というあの超懐かしのポジションに就いた 名も無き

   我が町の(何故汝は「我が」などと言えるのだ?)おお「我が」愛しの娘---

matiya


今は無き下水の地平から 蚯蚓のふやけた腹が覗く

 隣の飼い犬に踝(くるぶし)を噛まれた裏路地 

 そのとき私は何一つやるべきことが無かった小一の遊び人で 

 だるいダリを尻目にフェルメールの水差しの女が

 路地裏の銭湯で水浴しているのを知ってはいたのだが 

 ベル研究所に勤務するその飼い犬は グラハム・ベルが鳴らす

 ベルに涎を垂らす代わりに あの日の午後この踝を噛むように

 条件付けられていたのか いや 真相は呆気ない程に単純だ

 自らは受け取った手紙を読むことはない電話局 その傍らに佇む

 詩人が 言霊に呼びかけられ醒めることの無い夢を見るように


明野村A




末期にて(Anothr Version)ーー下町の記憶の底から

街角の舗道の上
固く閉じられた店の
錆び付いたシャッターの前や
古びたアパートの
コンクリートブロックの
小さな階段の真下に
横たわり
今にも死にかけていた
あるいはすでに
死んでしまっていたのかも知れない
行き倒れの人々の顔

その傍らを通り過ぎていく
人々の眼差しから
薄汚れた毛布やぼろ切れで
遮られていて
通過していく人々

眼差しなど求めてはいない
黄昏の街の大気の
半透明の被膜を
貫いていく
赤外線暗視スコ―プの
二つの眼球=眼差し
それがこの小さな街を覆い
包み込み
その街と外との応答を
断ち切っている

(赤く点滅するその眼球=眼差しが、一人の男のふらつく後ろ姿をとらえる。
ほどなくしてその男は力尽きてうずくまり、そのまま倒れ、路上に伏せに横たわった。
偽装した特性のない者たちが、両腕で支えた暗視スコープを眼球にぴったりとあてがう。
……男の身体に 暗視スコープの赤い光の束が、絶え間なく降り注いでいる……)

廃棄物の砂漠の直中に作られた
赤い血の降り注ぐ
バラック
へと
行き倒れの男たちを
運び込んでいく
特性のない者たち

くたびれた
灰色の作業ズボン

どこにでもありそうな
安物の紺のジャンパー

ガーゼマスク
マスク上部の眼球を覆う
暗視スコープ

やがてやってくる
真の暗闇

接近に備えて
彼ら自身の眼球の裏側に移植された

彼ら自身の力で
それを除去することは
できない
彼らのもとには
すでに
永遠の夜
真の暗闇

訪れている
獲物を狙う仕掛けが動き出す
永遠の夜
真の暗闇

餌食になるのは……

(ーー堅く閉ざされた病室の扉を開くと 一人の女性が ベッドに横たわっている
すでに言葉は失われていたが 彼女の沈黙の叫びはすぐそこまで届いていた
私の指先は 今 ようやく 彼女の乾いた指先に触れる
彼女は私の祖母だった その声は かろうじて私の名前を呼ぼうとする
だが 私の名前へと辿り着くことはない ふと気づくと いつもの見慣れた光景が
沈黙の中で血を流す瞳に貫かれ 私がいったんそこから立ち去ったあの扉が
今 再び開かれる)

薔薇の花弁が降り注ぐ部屋の窓辺で
忘却の彼方に生まれでた
その微笑が
凍り付いた私の瞼に
そっと触れ
やがて静かに
傍らを通り過ぎていった

私は眼を閉じる……

私に贈り与えられたもの
それは
眼差しではなく
ただ
この微かな息吹き


恵比寿



出来事のために(work in progress)

1

誰もいない街路で

半透明の貝殻を握りしめる


音も光もない部屋で

玩具を捨てる


TVが点いて

消えた


夢の中で

子どもが叩かれている




砂浜から鳥が飛び立つ (続く)






町屋4




「潮流詩派」202号作品

生を抽象化する「詩」という出来事のために
 
誰もいない街路で
半透明の貝殻を握りしめる
音も光もない部屋で
玩具を捨てる
テレビが点いて
消えた
夢の中で
子どもが叩かれている

砂浜から鳥が飛び立つ
これら言葉たちに
私は再び出会った
あたかもデ・キリコの描く 
予感に満ちた街角で
自転車に乗った物言わぬ少女に
偶然出会ったかの様に
これら言葉たちに
私は暫くぶりの挨拶を交わす
もしこの挨拶が
私だけの思い過ごしだったとしても
それは誰かの心の奥底から
確かに生まれてきたものに違いない
もし窓辺から
何も見えない時があったとしても
そこには
彼方から到来する言葉が待っている





「潮流詩派」203号作品

「無実者」の告白

いつもの公園を抜けて 
ふと俺は舗道に立ち止まった 
透き通った爽やかさが 
雨に濡れた舗道の寂しさを静かに湛えている 

そのときこの俺の顔が 
この俺の眼の前でゆっくりと溶けて崩れ落ちていった

これから一体どうするんだよ お前は 
どこでどうする? 
もう お前はどこにも帰れない

「この私」が何の証明になるって言うんだ?
そう もはや何の証明にもなりはしない
俺たちがお前の唯一の証人だからだ
つまりお前のことだ 
お前がその唯一の証人なのだ 
だからお前にはもう希望はない

何も驚くことはない 
嘆くことも 
そう 誰だってそうさ 

ところで これは 誰の告白だっけ?
もちろん誰のものでもない
そして誰のものでもある 

その時お前が……いや正直に言おう 
それは私かも知れない……
つまり誰もがそうなり得るのだが……
その恐るべき信じ難い何かを演じた者に
仕立て上げられるのだ





賭・広場・貨幣(詩篇version)

二人の者が出逢い
牛と馬を交換する

いつの日か
彼らはある開かれた
約束された場で
牛と馬を売り買いする者たち
博労/馬喰/伯楽と呼ばれる
ようになるだろう

〈博〉
すなわち
規定された交換の一歩手前に生成する
分散の反復
牛と馬を交換した二人は
まだ可逆的で可塑的な関係のうちにある
彼らの生きる場は
まだ変容する生命にあふれている

確かに博労たちは
交換に対して超越的な
ある尺度にいたる
一つの道筋をつけたのかも知れない
彼らはどの馬/牛とどの馬/牛とが
現実に交換できるのか
交換されるに値するのかを
吟味する能力を持つのだから

だが彼らの身体的力能に内在する尺度は
交換に対してまだ超越してはいない
この博労たちの交換から
超越的な尺度として機能する
貨幣を媒介にした交換へといたる
無限に思われる距離の
すぐ傍らに
賭が位置している

博労たちは
賭の民として生成することによって、
分散の反復を
規定されたーーその都度二項を対立させ
それら二項をもう一組の二項に対応させる
交換の枠の中へと
誘導していく

賭はまさに
貨幣の交換という形を取って生成することになる
このとき賭は
無限に反復され得ることを
あらかじめ予想されている
賭は
それが無限に反復され得るという予想がなければ
賭として成り立たないのだ


        ***


さまざまな獲物を携えた者たちが
その都度出逢い
それら獲物をいったん宙吊りにする
広場に彼らの獲物がばらまかれる
賭が始まり 反復される
無限の反復が予期された
その都度の反復
無限の反復が予期されることで
賭は獲物たちの分配という交換を生み出す
ある時すべてを失うある者が
別のある時に別の者としてすべてを奪い返す
その可能性が常に保留されていることが
賭けられた獲物と一つの破滅の交換でさえ
彼らの間での獲物の分配にしてしまうのだ

ここで破滅とは
自らの存在=身体を獲物として差し出し
犠牲になること
――さまざまな苦痛 破壊 
さらには抹殺の対象となることである
すなわち
〈経済〉という名の
終わりなき残酷の反復

賭の反復
――決定的な終わりを欠いた
未完であり続けるこの交換=分配の生成という
〈出来事〉の直中で
《広場》は変容する

それは
賭の反復における《市場》の生成という〈出来事〉である
無限の反復が予想された賭は
その都度の反復を
《市場》の内側へと誘導していく
さまざまな方向から
さまざまな獲物たちを携えた人々が集まる
そこではつねに
何が起ころうとも
獲物たちの賭が反復されることが
人々の間で予想されているからだ
それは
〈外〉への通路の不断の折り畳みとしての
〈内〉の生成であり
人々は絶えず入り交じりあいながら
賭けられるものーー獲物たちとともに
そこへと
あるいはそこから出入りする

その都度の人々の出入り――《市場》の生成は
その都度の賭の生成なのである
賭が無限に反復されるという予想は
その都度の賭の直中へと巻き込まれる
賭の無限反復の予想は
それ自身が賭である以上
賭に先立ってなどいなかった
それは予想ではなく
<賭>そのものであった

ここで賭けられている獲物
同時に賭の直中で獲物として生成してくるもの
それこそが
《我々=人間》なのだ---


          ***

こうしたことに一体どんな終わりがありうるのか
これを限りの
一つの終わりというものが。
瞬時に凝集する賭けられるもの
――獲物=《我々=人間》――は
次の場面で他の時空へと旅立ち
移りゆくためにのみそこに場所を占める
だがそことは
その都度破壊され
生まれ出る時空の狭間だ
それは
次の
もう一つの時空へとたどり着くことはない
誰かの掌の上の砂は
いつしか指の隙間からこぼれ落ちている
賭は
賭を没落させる終わりのない分散へと
永遠に回帰するのだ


……ふと気づくと
砂浜の上を横切っていく俺の影は
いつしか黄昏の光と溶け合う波に洗われ始めていた
確かにそこに
新たな時が
今にも刻まれようとしている
俺は立ち止まる

あの街は今でもそこにあるのだろうか?
あの壁に浮かび上がって消えた落書きを刻んだのは
この俺でなければ
一体誰だったのか? 

だがそこがどこなのか
俺にはもはや分からない
いつか
そしてどこかに書かれたはずのその文字は
遠い残響となって俺の脳裡をかすめていくだけで
それがどこからやってくるのか
確かめる術はない
俺の身体を
既にそこにあった沈黙と
没落していく黄昏の光と
生まれ出る闇が包み込んでいく
俺は静かに眼を閉じる――


この体を繰り返し洗う波間から
俺は立ち去ることが出来なかった
そこには
潤いと恵みにみちた震えが生まれる

あらゆる生き物たちが
どこまでも屈曲し
分岐するはるかな時空を貫いて
この波間で誕生と死を反復してきた
生き物たちは
この微細な反復の過程で
あらゆる触発を誘う波の動きを
自らの内側へと包み込んでいった
というよりむしろ
この内側の生成としての波動の包み込みこそが
生き物たちの誕生だったのだ
生き物たちの内側へと包み込まれ
新たに生まれたさまざまな波の動きは
さらにその内側/波間に
あらゆる生き物たちを誘発する触発の場を用意した
それら触発の場が新たに内側へと包み込まれることによって
あらゆる生き物たちの内側で
あらゆる生き物たちが新たに誕生していったのだ
包み込まれるこの体が
さまざまな他の体を再び包み込む

こうして
一つの皮膚に包み込まれた無数の体が
再び無数の包み込む皮膚=体を包み込んでいく

そこは
他者としてあらゆる誕生と死の狭間に生まれでる
――すなわち
出来事として生成する 
あの  
別のある者……



    

詩作品:アイロニーの焼け跡にて(この時代のランドスケープ)


CURE、すなわち、癒し

            あるいは、「世界で一つだけの花」---


タイトル:生き延びること

生き延びること

それは没落を背景にしているのではない

言い換えれば

没落する者たちを背後に

自らは没落を免れているのではない

そうではなく

それはまさに没落の反復であり

またそうしたものとしての終わりなき試練=訓練なのである

どこまでこの没落を反復することができるのか

そしてそれを耐え続けることができるのか

永遠回帰

生き延びることは

この没落の反復というプロセスであり

この没落の中から生まれてくる

だがそれは

没落とは異なる何かが

そこから離脱することではない

没落の反復は

生き延びることを

残るくまなく巻き込んでいる

逆に生き延びれないことは

それは常にどこかで起こってしまっているのだが

この没落をもはや反復し得ないということなのだ

こうした人生における差異を

自らのものとすることができるかどうかの

差異は

計り知れない


終わりなき試練=訓練の直中で

意識の彼方でいつか訪れる天啓を待つがいい

身体と行動の変容を


六本木




*「潮流詩派」204号作品:完璧な袋小路にて
 
想像してみて欲しい 
例えば 貴方の生まれ育った町や村や街のこととして 
今現在貴方の生活の根底を成す生活空間として

例えば「水俣病」という名前すらいまだなかったときの 
その発生の端緒の時を---
あるいは 
東京都**区某大学隣の封じ込め施設からの未知のウィルスの不可視の漏出という出来事の端緒の時を---
そこには現代の そして同時に永遠の悪夢がある 
その最も普遍化された表現は以下である           

問題とされた地域住民の超飢餓状態と未知の化学物質または生物との因果関係をどうしても「立証出来ない」との最終的結論が今正式に下された 
地域の風景を構成する無数の散乱する超巨大バエ同士の生体政治工学的反応の傍らで 
これら無数の超巨大バエどもがその体内に包み込んでいる超猛毒性または遺伝子壊乱性キャンベル・スープの居た堪れない程の快楽に 
地域住民は正常な意識の彼方で思わず震えながら群がっていた
だがまさにこうした震えこそ 
残酷にも震える当事者 すなわち
私たち自身が
その「因果関係の立証」という躓きの石を課せられた 
あの「症状」であったのだ



*過去の東海村

その時
まだ
その出来事は到来してはいなかった

この言葉を記す私は
まだ
ここに存在している

だが
そのことを
あの出来事に対して保証するものは
ここには
まだ
存在していない---



*夢の中の対話

母が教えてくれた

大人になるのに必要なこと

それを知るのが怖かったことを



*「潮流詩派」205号作品:写真 あるいは死の影の中で

ある月刊誌で目にした一枚の写真
アンドレ・ケルテス『世界貿易センタービル』1975年の作品だ
オリジナルを欠いたクローン同士ともいえる二つのビルを背景にして
そのやや前景に
飛翔する二羽の鳥が映し出されている
写真を眼の前にした人々の脳裡には
予告された未来の 
あるいは
すでに起こってしまった死が
焼き付けられた
(ツインタワーに激突する二つの飛行物体の影が 写真という 予告された あるいはすでに起こってしまった何かの映像を二重化しながら 今 その写真の中に浮かび上がる)
それはちょうど
独り部屋にいて ふと気づくと 今し方そこにあったはずの一枚のスナップ写真が どうしても見つからなくなってしまったかのようだ そしてそこには 見知らぬ別の写真がいつしか置かれている
その別の写真の中に 失われた写真を通して透かし見ることのできた 
我々の死が
静かに映し出されている


2012/5/30

タイトル:無題 2012/05/30

あの空にもう戻れない
あの土と草と砂に

あの浜辺で
君と出会うことはできない
そこで君と語り合うこともない

いつか君とそこにいたはずの世界は
もうここにはない

でも 
もうないというそのことを
君はなぜわかるのか?

僕にはまだわからないのだ
あの日以来
君と僕が
そこでなにを感じて
なにを失ったのか
まだ---


明野村B



*nの詩の余白に ndg-hayashi(林正憲;Hayashi Masanori)

確かに、日常と呼べる何かがある。そこから苛立ちと怒りと憎悪が生まれる。日常の合理性、効率性。あるいは批判なき反復。単なる習慣。『砂の女』で描かれたような、日常を形成する小さな反復たち。
そこに、詩のことばが吹いてくる。それは光か、沈黙か。
あるいは窓辺または水辺に、ひとりの女がいる。確かに幼いが、もう少女とは言えない。だが大人のと言うよりは、いくつもの年齢をそれぞれ育てあげつつあるといった・・・
突然、彼女が歌い出し、私は驚く。イタリア語の歌曲を口実に、自らの身体の中で声を響かせ、たちまちその音は外へと流れ出す。内部が外部へ出て行く。秘密が明らかになるみたいに。今そこに感じられる秘密。答えであるのに問いであるもの。よくあることだが、日常の単純な二分法が通じなくなる。明るいが暗く、暗いが明るい・・・と、そんな思考のゲ-ムは引き裂かれる。声の持続が臨界点からあふれ出し、いくつもの異なる物体を一つに結びつける。境界線がわからない。同一的な癒しの空間ではなく、目眩むような差異化の動きそのもののなかに置かれている。
と、歌は終わった。世界は変わった。だが日常の顔がそこに見える。私は忘れることのない声の響きとともに、少し落ち着いて、nの詩を読むだろう。(2005年02月14日 00時47分)


*Re:nの詩の余白に(02/06) zero-alpha(永澤 護)
久しぶりに、あの懐かしい頃みたいに、ちょっと恥ずかしいのだが、アッシュと呼んでみたい。
そこで、アッシュ
素晴らしい書き込みありがとう。

『砂の女』は恐ろしすぎる---小さなものほど恐ろしく執拗な---ミクロの同一者の反復を---果てもなく繰り返すこと---あの男が砂の底なし沼に嵌ってしまったように---詩の言葉がこれほどまでに無力なのは---なんと素晴らしい奇跡/軌跡だろうか---窓辺または水辺に言葉もなく佇みながら---語りかけることしかできないとは---勘違いしてはいけない---詩によって仮に---日常の単純な二分法が---通じなくなるのだとしても---それこそ無力さの極みであり---だがそれは---もし幸運に恵まれるなら---思考のゲームの無力さを剥き出しにするはずの無力さを---このゲームと共有している---何一つなすすべもなく---日常の顔をただそのままに---今ここに---そして同時に---いつかどこかの時空に保存しながら---私はもうすぐそこにある---アッシュの文書に出遭うだろう---

(2005年02月14日 20時37分)


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